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宇都宮地方裁判所 昭和59年(わ)193号 判決

被告人 萩原久之 ほか三人

主文

被告人萩原久之を懲役四年に、被告人石川亨を懲役三年に、被告人橋本光浩を懲役三年に、被告人石川敏彦を懲役一年六月に処する。

被告人萩原久之に対し、未決勾留日数中三〇日をその刑に算入する。

この裁判確定の日から、被告人石川亨に対し四年間、被告人橋本光浩及び被告人石川敏彦に対し各三年間、それぞれその刑の執行を猶予する。

訴訟費用のうち、証人上山滋太郎及び同小島康男に関する分は被告人萩原久之、被告人石川亨及び被告人橋本光浩の連帯負担とし、証人大栗丹波に関する分は被告人萩原久之及び被告人石川敏彦の連帯負担とする。

理由

(犯行に至る経緯)

一  被告人らの身上、経歴等

1  被告人萩原は、中学校を卒業後、電気製品の組立工等として働きながら、翌昭和五一年四月から同県立栃木高等学校定時制に通学し、昭和五五年三月に同校を卒業し、翌昭和五六年一月二一日から新聞の求人広告や友人の勧め等により、宇都宮市内の精神医療を目的とする医療法人報徳会宇都宮病院(以下「宇都宮病院」という。)に看護助手として勤め、昭和五七年七月一四日から同病院新館二階の閉鎖病棟(以下「新二病棟」という。)を担当していた者、

2  被告人石川亨は、昭和五三年三月、宇都宮市内の私立作新学院高等部を卒業後、陸上自衛隊に二年間勤務し、その後しばらく工員として働き、昭和五八年二月一五日から友人の紹介で宇都宮病院に就職し、当初しばらくは主に院長の弟の選挙運動の手伝いをし、同年四月一〇日ころから本格的に新二病棟で看護助手として勤務するようになつた者、

3  被告人橋本は、昭和五三年三月、同県立足利商業高等学校を卒業後、同県警察官となり、約一年間警察学校での教育を受けた後、昭和五四年三月ころから佐野警察署葛生幹部派出所に配属されて二年間勤務し、昭和五六年三月、宇都宮南警察署に転勤となつたが、その頃から躁病が発現し、異常な行動が目立つようになつたため、同月二八日、宇都宮病院に入院し、同病院内の他のいくつかの病棟を経て、昭和五七年七月から新二病棟に収容されていたものであるが、入院中比較的病状が安定してきたため、院長に命じられて昭和五六年九月ころから同年一二月ころまでと昭和五七年七月ころから昭和五八年八月ころまでの間、看護人の手伝いをしていた者、

4  被告人石川敏彦は、昭和四九年三月、栃木県立茂木高校を卒業後、配管設備工などをして働き、昭和五三年二月に結婚して、同年一二月に長女をもうけたが、宇都宮市内の外科病院で准看護婦をしている妻と同じ仕事をしたいという気持等から、昭和五八年一月二四日ころ新聞の求人広告を見て宇都宮病院に看護助手として就職し、同病院内の他の病棟勤務を経た後、同年一〇月中旬ころから新二病棟に勤務していた者である。

二  被害者らの身上、経歴等

1  小島惣一郎(昭和二五年九月二一日生)は、定時制高校を中退した昭和四三年ころから独り言を言つたり、薄笑いを浮かべながら徘徊するなどの異常行動が現れ、昭和四四年一二月、兄に連れられて下都賀総合病院等で診察を受け、精神分裂病と診断され、同月一七日、宇都宮病院に措置入院となり、同病院内の閉鎖病棟に収容され、同病院内の病棟をいくつか経由した後、昭和五七年八月ころから新二病棟に入院していた者、

2  大栗皇英(昭和二三年七月二一日生)は、三、四歳のころ初めててんかんの小発作を起こし、以後年に二、三回ほど発作を繰り返し、高等学校を卒業後、工員等をして働いていたが、その間の昭和四八年一二月ころに自動車を運転中てんかん発作が原因と見られる交通事故を起こして同乗していた母を死亡させてしまい、そのころから飲酒量が増え、次第に肝臓も悪くして、昭和五八年八月一九日、慢性アルコール中毒及び肝硬変と診断されて宇都宮病院に入院し、同年一〇月ころから新二病棟に入院していた者である。

(罪となるべき事実)

第一  被告人萩原は、昭和五八年四月二四日午後四時過ぎころ宇都宮市陽南四丁目六番三四号所在の宇都宮病院新二病棟大ホールにおいて、看護人として夕食中の入院患者の監視をしていた際、小島惣一郎(当時三二歳)が食事に少し手をつけただけでほとんど食べないのを見掛け、「食べなきやだめだ。」と注意しながら同人の頭を左手拳で二、三回小突いたところ、同人が「食いたかねえんだ。」と答え、被告人萩原の「捨てるんじやない。」という言葉を無視して、同ホール配膳カウンターの残飯入れに食事を捨ててしまつたのに腹を立て、同人の頬を右手拳で二、三回殴打したところ、同人は更に殴打されるのを避けようとして、被告人萩原の、数日前に怪我して包帯をしていた右手首を掴んだため、同被告人は、その右手首に痛みを感じ、また多数の他の患者の見ている前で同人に抵抗されたため、看護人としての面子をつぶされたと感じ、その制裁として同人に暴行を加えようと決意し、同人の手を振り払つたうえ、女性用のサンダル(押収番号略、以下同じ。かかとが細めで、樹脂加工張りが施されていて硬いもの)履きの右足の甲で同人の左腰あたりを約二回力を入れて回し蹴りし、同人の手を掴んで大ホール北隣りの小ホール内の北側に置かれていたベツド付近に連行し、同所において、同人に対し、「何で手を離さなかつたんだ、怪我をしているんだぞ。」と怒鳴つたところ、同人が「食いたかねえんだ。」と見当違いの返事をしたため益々激昂し、再度前記サンダル履きの右足の甲で同人の左腰を一回思い切り回し蹴りした。この様子を大ホール西隣りの看護人室で見ていた被告人石川亨は、直ちに小ホールへ駆けつけ、また大ホール南西隣りの配謄室でこの様子を聞きつけた被告人橋本も、やや遅れて小ホールへ駆けつけ、右両被告人はいずれも何が原因か具体的にはわからなかつたが、小島が被告人萩原の指示に従わなかつたため制裁として暴行を受けているものと考え、自らも看護人ないし看護人手伝いとして被告人萩原に加勢して小島に制裁として暴行を加えようと決意し、ここにおいて被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本は、互いに暗黙のうちに意思を相通じて、小島に対して暴行を加えることを共謀したうえ、そのころから午後四時三〇分ころまでの間、まず被告人石川亨が、小島に対し、「何をしたんだ。」と問い質したのに、同人が同被告人の顔を見返しただけで何も答えなかつたので、その態度を反抗的と感じて、同人の左頬を右手の平で三、四回殴打し、更に左手拳で同人の顔面を目掛けて殴りかかり、同人がよけたためその右肩と右腕を一回ずつ殴打し、この間に被告人萩原は同病棟北奥のリネン室に金属製パイプのあることを思いつき、右リネン室から金属製パイプ一本(長さ約八〇センチメートル、直径約二・五センチメートル、重さ約四四〇グラム)を持ち出して小ホールへ戻り、小島が「助けてくれ、やめてくれ。」と哀願するのも構わず、右金属製パイプを両手に持つて、野球のバツトを振るように反動をつけて小島の背部及び腰部あたりを七、八回殴打し、その際被告人石川亭は、被告人萩原が小島を殴り易いように同人の左肩あたりを右手で押えたりし、続いて被告人橋本も被告人萩原から右金属製パイプを受け取つて、同様に野球のバツトを振るように小島の腰部から臀部あたりを思い切り二、三回殴りつけ(以上の被告人萩原及び被告人橋本の殴打により右金属製パイプはくの字形にやや変形したほどであつた。)、また被告人橋本は、同人の着ていた服の襟元を掴んで足払いを掛けてタイル張りの床上に倒したり、同人の背中を両手で押して前方へ思い切り突き飛ばしたりした。なお、被告人萩原は、右金属製パイプによる殴打の途中で、小島が余りの痛さに耐えかねて小ホールから大ホールへ逃げ出したので、右金属製パイプを持つたまま大ホールのテーブルの回りなどを二周位追いかけ回し、結局同人を捕まえてまた小ホールへ連れ戻したのであるが、その際被告人萩原は、小島が逃げながら出した椅子につまずいて転んだため、多数の患者の見ている前で恥をかかされ、このままでは示しがつかないなどと考えて益々激昂し、同人を徹底的に痛めつけてやろうと考えるようになつていつた。そして、更に、被告人萩原は、同人が「痛え。やめてくれよ。助けてくれよ。」などと泣き叫ぶのも構わず、同人を小ホール西南隅の方に連れて行き、その肩の上に乗つて肩車をするように命じたが、同人が既にかなり弱つていてどうしても立ち上がることができなかつたところ、次に同人を床の上に四つん這いにさせて、同ホールの壁と手摺に手をかけて、同人の背中の上に前記サンダル履きのまま飛び乗り、約四八キログラムの全体重をかけて三、四回足踏みをするように踏みつけ、続いて、被告人石川亨が、同様に四つん這いになつた小島の背中の上に運動靴履きのまま飛び乗つて約五八キログラムの全体重をかけて数回足踏みし、また被告人橋本も同様に四つん這いの小島の背中の上に飛び乗つて、約八〇キログラムの全体重をかけて二、三回足踏みしたところ、同人がその重さに耐えかねて床の上にうつ伏せにつぶれてしまつたため、被告人橋本もそのはずみに同人の背中の上に膝から落ちて正座するような形となり、その際にも同人の背部に打撃を加える結果となつた。そして、その後更に被告人萩原は、床の上にうつ伏せになつたままの小島の上を前記サンダルを脱いで素足で尻の方から乗つて腰、背中と踏み歩き、被告人石川亨も同様に小島の背面を尻から腰、背中と踏み歩いたところ、同人は既にうめき声もあげなくなつており、その場にぐつたりと倒れていたが、しばらくして自力で立ちあがり、小ホール内の前記ベツドのところへ足を引きずるようにして歩いて行つて腰を下ろしたが、被告人橋本はなおも同人を追つて行つて右ベツドの上に乗り、同人の後ろから右足で背中を蹴りつけて同人をベツドから突き落とし、横向きに倒れた同人の近くに飛び降り、その勢いを利用して右膝で全体重をかけるようにして同人の右脇腹から腰のあたりを押しつけるようにして一回打ちつける暴行を加え、以上の被告人三名の各暴行により、同人の背部及び腰部等に多数の打撲挫傷、筋肉挫滅等の傷害を負わせ、よつて、同人をして、同日午後八時ころまでの間に、同病院内において、右傷害に基づく外傷性シヨツクにより死亡するに至らしめた。

なお被告人橋本は右犯行当時躁病のため心神耗弱の状態にあつたものである。

第二  被告人萩原は、昭和五八年一二月三〇日午後四時二〇分ころ、前記大ホールにおいて、看護人として勤務中、大栗皇英(当時三五歳)が面会人に対し「こんな病院にいたつてよけいに病気が悪くなる。やたらと殴られる。正月も外出させてもらえない。」などと不平、不満を漏らし、夕食の際にも、「食事がまずい。配給されるタバコの本数が少ないから吸つた気がしない。」などと文句を言つたため、同人に対し、「文句をいうな。」と怒鳴りつけたところ、同人が反抗的な態度をとつたため、看護人としての面子がつぶれたと感じ、同人に対し制裁として暴行を加えようと決意し、同人の手を掴んで小ホールへ連行しようとしたが、同人がその手を振り払つて逃げようとしたため、これを追いかけて捕まえようとしたところ、この様子を大ホール内で見ていた被告人石川敏彦も、被告人萩原と同様に大栗の前記面会中の言動を腹立たしく思つていたため、同人に対し制裁として暴行を加えようと決意して、そのころから午後四時三〇分ころまでの間、まず被告人石川敏彦が同人の腕を掴んで前記小ホールへ連行し、同人に対し、「この野郎、何言つてんだ。」と怒鳴りつけながら、サンダル(男性用で比較的柔らかい素材のもの)履きの右足の甲で同人の左ふくらはぎ付近を三、四回思い切り回し蹴りし、右手の平で同人の顔面の左こめかみから眉毛付近を一回強く突き飛ばし、続いて被告人石川敏彦らと一緒に小ホールへ来ていた被告人萩原が、サンダル(女性用で底が樹脂加工張りで硬いもの)履きの右足の先か甲で一、二回同人の足から腰付近を回し蹴りし、次いで被告人石川敏彦が同人を正座させようとして、同人の両肩を押えて無理矢理床の上に押しつけたところ、同人があぐらをかいたので生意気に思い、同人の横からその大腿部あたりを前記サンダル履きのまま右足のつま先で思い切り一、二回蹴りつけながら、「この野郎、ちやんと座れ。」などと申し向けて、同人に正座をさせたうえ、被告人萩原及び被告人石川敏彦が同人を左右からはさむようにして、その左右の大腿部を各自前記サンダル履きの右足の先で三、四回ずつ思い切り蹴りつけ、更に、被告人萩原が右サンダル履きの右足の甲で約三回同人の背中を回し蹴りし、被告人石川敏彦が右手の平で同人の左肩を突き飛ばし、近くでその様子を見ていた入院患者に命じて一斗缶入りの水を持つて来させてその水を同人の頭から掛けさせたところ、床が水浸しとなつたため、被告人石川敏彦は前記配膳室へ行つてサンダルをゴム長靴に履き替えて小ホールに戻り、スチール製の折りたたみパイプ椅子を持つて来て、それをたたんだ状態で両手に持ち、三、四回左肩の上の方に振り上げては同人の背中あたりを目掛けて振り降ろし、同椅子の腰掛け部分を中心にして、同人の腰から背中あたりに命中させて殴打した後、右パイプ椅子を左手に持つたまま、右ゴム長靴履きの右足のつま先で同人の右大腿部を二、三回強く蹴りつけ、最後に被告人萩原が右足で反動をつけて同人の腰を一回蹴りつける暴行を加え、もつて数人共同して暴行を加えた。

第三  被告人石川敏彦は、前同日午後八時二〇分ころ、前記大ホールにおいて、前記大栗が他の入院患者と口論しているのを見掛けて同人に注意をしたところ、同人が反抗的な態度をとつたのに腹を立て、他の入院患者に示しをつけるためにも制裁として同人に再度暴行を加えようと決意し、同人の腕を掴んで同ホール内前記看護人室前付近に置かれていた卓球台の方に連行してきたところ、同じく看護人として勤務中の斉藤三千男がその場に駆けつけ、斉藤も大栗に対し制裁として暴行を加えようと決意し、そのころから午後九時ころまでの間、まず被告人石川敏彦及び斉藤の両名で大栗を無理矢理右卓球台の上に乗せて正座を命じ、同人が「畜生」などと叫んで反抗的な態度を示すと、被告人石川敏彦は、その近くで大ホールの掃除をしていた他の入院患者の持つていた木製モツプを取り上げてこれを両手で逆さに握り、同人をやや前かがみにさせて、右モツプの柄で同人の尻あたりを三、四回思い切り殴りつけたが、同人がなおも正座をやめて立ち上がろうとしたため、斉藤も右モツプの柄で同様に同人の尻あたりを約三回思い切り殴りつけ、被告人石川敏彦及び斉藤は、同人に対し、「そのまま正座していろ。」と命じて前記看護人室へ戻つたが、二、三分後に同人が正座をやめてまた立ち上がろうとしたので、被告人石川敏彦は右卓球台のところへ戻つて、前記モツプの柄で二回位同人の尻あたりを思い切り殴りつけ、モツプの柄が折れてしまつたのも構わず手に残つた柄の一部で同人の尻を更に三、四回強く殴打し、その後看護人室に戻つていたが、また同人が右卓球台を降りて病室へ戻ろうとしたので、被告人石川敏彦は抑制帯二本を持つてまた右卓球台のところへ行き、入院患者の一人に手伝わせながら卓球台の柱に右抑制帯で同人の両手を後ろ手に縛りつけて正座させるなどの暴行を加え、もつて数人共同して暴行を加えた。

(証拠の標目)(略)

(争点に対する判断)

第一小島に対する暴行と死亡との間の因果関係について

1  被告人萩原及び被告人橋本の弁護人は、判示第一の事実について、被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本の小島に対する暴行と同人の死亡との間の因果関係を争い、小島に対する本件暴行当時の同人の健康状態はクロルプロマジン(CP)等の向精神薬の長期に亘る大量投与により、肝障害、血圧下降、皮膚炎等の身体全体にわたる広範囲な副作用によつて侵されていて、これらの副作用を押えるためにカルニゲンのような血圧上昇剤を投与しなければ正常な心肺機能を維持できない状態にあり、現に薬疹が治癒しておらず、食欲も減退するなど体調に異常を来たしていたものであり、また、小島に対する被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本の暴行の程度もそれ自体で身体の障害を生ぜしめるような高度のものは被告人萩原及び被告人橋本の金属製パイプによる殴打と被告人橋本のニードロツプ様の膝打ちだけであり、そのいずれも暴行の程度としては低く、いまだ定型的に致死の結果を生ぜしめる程度のものとは認め難く、小島の背中の青あざとされるものも死斑の可能性を拭いきれないのであり、これによると、小島の死因は右被告人らの暴行による外傷性シヨツク死ではなく、それ以外のCP等の向精神薬の副作用による突然死、てんかん発作、抗てんかん剤の副作用等の可能性を払拭できない旨主張するので、以下この点について検討する。

2  そこで先ず小島の本件暴行受傷前の健康状態について、ここで予め考察しておく。関係各証拠によれば、同人は昭和四四年一二月一七日、精神分裂病により宇都宮病院に入院し、昭和五八年四月二四日に死亡するまでの一三年余の間同病院で各種治療及び検査を受けて来たものであるが、精神病自体は死につながるものとは考えられず、向精神薬の副作用とみられる肝障害及び低血圧の症状がかなりの時期に出現しているが、これは症状の固定する器質的障害ではなく、機能的障害であつて、向精神薬の投与を控えれば回復する程度の障害であつたと認められ、また頻脈及び貧血傾向も認められたことがあり、これも向精神薬の副作用と考えられるが、これらはいずれも昭和五八年四月当時は正常の範囲内に回復していたのであり、更にこれも向精神薬等の副作用と思われる湿疹が以前から身体に出来ていて、治癒していなかつたのであるが、これは小島だけでなく、同病院内に入院中の他の多くの患者にも見られた症状であり、それも小島の場合は快方に向かつていたことが認められ、この点からも直ちに死につながるようなものとは到底考えられず、心電図にもその他の内臓器官等にも異常は認められていないのである。また、一時脳波にスパイク様の波形がみられたこと、異常性欲、衝動行動、嘔吐、眼球上転及び失禁がみられたことなどから、診断名にてんかんが加えられたこともあるが、てんかんも大発作の場合に極めて稀には死に至ることもあるが、通常、殊に病院内では、死につながる病気とはいえず、小島が宇都宮病院に入院中、てんかん特有の意識障害とかけいれん発作を起こしたというようなことは全く認められず(診療録中の「発作あり」等の記載が信用できないことは、後記上山鑑定のいうとおりである。また仮に発作を起こす素地があつたとしても、各種の抗てんかん薬の投与により、発作そのものは抑えられていた筈である。)、失禁は本当の意味の失禁かどうか極めて疑問であり、また嘔吐も間食のしすぎが原因であると認められるのであり、小島がてんかんであつたと認めるに足りる証拠は乏しく、むしろその可能性は少ないといえ、その他小島は日頃から病棟内を活発に動き回つていたこと、本件暴行を受けた当日の夕食こそあまり食べなかつたが、その原因も不明で、間食等をしていた可能性があり、同人の食欲が当時特に減退していたと認めるに足りる証拠もないことなどから、小島は、本件暴行受傷前には少なくとも身体的には普通といつてよい程度の健康状態を保つていたものと認められる。

(なお、宇都宮病院においては、入院患者の健康状態の検査及び記録が極めて杜撰で、体温表の如きは毎月一回検査をして、あとは適当に記載していたのであり、診療録の当該部分はそのまま信用することができないのであるが、他の各資料から小島の健康状態を推測することは可能である。)

3  そこで次に、本件暴行の態様、程度をみるに、それは少なくみても判示認定のとおりであつて、金属パイプによる多数回に亘り、パイプが変形するほどの殴打、手摺につかまつて跳躍しながらの踏みつけ、最後にベツドからとび降りる勢いを利しての膝打ち等、極めて執拗かつ強烈なものといわざるを得ない。なお右金属パイプは、肉厚一ミリメートル程度とはいつても、金属である以上それなりの強度があることは明らかであり、これを用い、野球のバツトを振るようにして、その結果パイプが曲るほどに殴りつけた行為による加撃の程度が、甚だ強力であつたことも、自ずから明らかであるというべきである。その余の行為も、暴行の程度として決して軽いとは言えず、殊に小島が四つん這いの姿勢を保持し切れずに潰れてしまつた際の、被告人橋本の踏みつけ行為や膝打ちも、後者については同被告人の述べるように、先に片足が床に着く形であつて、瞬時に全体重が膝に集中するという形ではなかつたにしても、小島がそのころ既に全く無抵抗無防備の状態であつたことを考えあわせれば、同人の身体にかなりの衝撃を与えたと考えられる。

そして、その後小島が死亡するに至るまでの経過については、同人は暴行を受けた後しばらくは床に倒れ込んだまま立ち上がることもできずにいた後、ようやく立ち上がつて手摺を伝つて自力でどうにか自室に戻り、上半身を投げ出すようにベツドにうつ伏せに倒れ込み、同室の患者達に仰向けに寝かされたが、腰や脇腹あたりを押えて苦しそうに顔をゆがめながら、「ウー、ウー」とか「痛え、痛え。」などとうめき声を上げ、水を要求したので患者の一人が飲ませてやつたのにほとんど飲む力もなく、やがて口から血混じりのよだれをたらしたり、血混じりの排便をしたこと、同室の患者達が小島の衣服を着替えさせようとしたところ、背中の下の方から腰にかけて、直径二〇センチメートルから三〇センチメートルの円形の範囲内に新鮮な青筋状のあざが存在したこと、その後同室の患者達が小島の身体をぬれたタオルで冷やしたりしていたが、次第に同人は動かなくなり、うめき声も小さくなつていき、コツプ約一杯分の血混じりの黄色い液体を吐いて静かになつていき、脈をとつても触れず、心臓の鼓動も聞こえなくなり、身体が冷たくなつて顔面も青くなつていつたため、患者の一人が人工呼吸を行つたが回復せず、午後八時ころ看護人を呼びに行き、被告人萩原らが駆けつけて、人工呼吸、吐物の吸引等の措置を試みたが蘇生せず、そのころまでに小島が死亡したことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

してみると、独協医科大学法医学教室医師上山滋太郎作成の昭和五九年六月九日付鑑定書及び第三回公判調書中の同人の供述部分(以下「上山鑑定」という。)が、当裁判所の前記認定とほぼ同一の内容の小島の生前の健康状態、暴行の態様、受傷後死亡に至るまでの経緯等を認定したうえで、「〈1〉小島の受傷前の身体的健康状態に急死するような問題点のなかつたこと、〈2〉小島の死亡は向精神薬の非投与時に発来したこと、〈3〉頻回かつ強力な暴力を連続的に受けたこと、〈4〉受傷後、暫時経過後にシヨツク状態に陥り、三時間半ないし四時間で死亡したこと、〈5〉鈍的外力の作用痕跡が明瞭に存在していたことなどから、小島の死亡と本件暴行との因果関係は認めざるを得ないし、死因は、〈1〉外傷性シヨツク死、〈2〉後腹膜下出血、〈3〉脾臓ないし肝臓ないし腎臓破裂に基づく失血死、〈4〉腸間膜動脈損傷に基づく失血死、〈5〉外傷に基因する吐物吸引による窒息死(以上はいずれも広義の外傷性シヨツク死に含まれる。)の五つの可能性が考えられるが、そのうちでは〈1〉の外傷性シヨツク死が最も疑われる。小島の死亡は向精神薬の副作用に基づくものではなく、死亡前三時間ないし四時間前に加えられた本件暴行に基づいて惹起されたものと強く推定される。」と判断しているのは充分首肯することができる。殊に前認定の、小島の血液混じりの吐物や血便等は、内臓損傷の存在及びそれが寄与しての外傷性シヨツク死であることを強く疑わせるものというべきである。

4  そこで、次に、小島の死因について、被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本の本件暴行以外のものが考えられるかどうかを検討する。

(1) CPの副作用による死亡もしくは「CP服用中の突然死」について

CP等の向精神薬は、大量に服用した場合には副作用により死を招くこともあることは、広く知られているところであるほか、CP等フエノチアジン系向精神薬については、その長期大量投与を受けている者が、突然死亡し、剖検によつても死因が明らかにされ得ない例(「服用中の突然死」)が時に存在することは、医学文献に記述され、上山鑑定にも言及されているところである。

しかし、右突然死とCP等との関係は、未だ仮説の域を出ないもので、CP等が突然死をもたらす機序は全く解明されていないし、これを服用していない者にも起こる突然死との関係も、医学的に検討されていないのであつて、突然死はCPの副作用とはいえないかもしれないという見解もあるということである(上山鑑定)。のみならず、小島に対しては、昭和五八年二月末までは、CPを主に、他にもニユーレプチル、ヒルナミン等のフエノチアジン系向精神薬が長期に亘りかなり大量に投与されていたことは事実であるが、右投与量は常用量を超えるものではない上、同年三月一日以降本件まで、フエノチアジン系薬剤は全く投与されていない(処方録による。)のであるから、同人の死亡は、「CP等の服用中」の死亡ではない。

既に見たような本件暴行の程度態様、小島の死亡に至るまでの経過が「突然死」の様相(突然の虚脱、心拍停止等)とは程遠いものであること、同人の生前の健康状態(もとより突然死とは、字義のとおり一見健康そうに見える人が、前兆らしいものが殆んどなしに突然死亡することをいうのであるから、生前の健康状態を論ずることはあまり意味がないともいえるが、上山鑑定によれば、「突然死」の事例の中には、生前から心電図に異常が認められる例も多いということであるところ、小島の心電図には異常は認められていない。)等に、突然死に関して右に述べたところとを彼此勘案して考察すれば、同人の死亡がフエノチアジン系薬剤の何らかの副作用によるのではないかとの合理的疑いをさしはさむ余地はないと断定することができる。

(2) その他の向精神薬との関係について

関係各証拠によれば、小島はフエノチアジン系以外の向精神薬(プチロフエノン系のセレネース等)や抗てんかん剤(プリムロン、レキシン、テグレトール等)も長期的に服用していたことが認められ、それらにも副作用のあることは知られているところであるが、小島の服用していたこれらの薬剤が常用量の範囲内であつたと認められ、上山鑑定によればこれらの向精神薬や抗てんかん薬の副作用も、死に直結するようなものではなく、死亡例は文献等でも同鑑定人の知る限りでは、全く報告されていないとされているのであり、本件において、小島の死亡がこれらの各原因によつて発生したと疑う余地は全くないといわなければならない。

(3) なお、てんかんについては既に2で述べたとおりであつて、到底死因とは認められない。

5  従つて、以上を総合すれば、本件は小島の死体解剖がなされていない事案であるが、小島の死因は、上山鑑定が述べているように、被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本の暴行に基づく外傷性シヨツク死(広義)によるものと認めるほかなく、このように認定することは、本件暴行の態様、小島の死に至るまでの経緯等からみて、何ら矛盾はないものと認められ、被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本の本件暴行と小島の死亡との間には法律上の因果関係が存在するといわなければならない。

第二被告人橋本の責任能力について

1  被告人橋本の弁護人は、被告人橋本は判示第一の犯行当時、躁病で心神耗弱の状態にあつた旨主張し、検察官はこれに対し、右犯行当時の被告人橋本の精神状態は極めて安定していたのであつて、責任能力において通常人と全く異ならず、是非善悪を弁別し、それに従つて行動する能力を有していたことは明らかである旨主張する。

2  栃木県立岡本台病院々長林信人作成の鑑定書(以下「林鑑定」という。)によれば、同鑑定は昭和五九年四月一日と同月一七日の二回、被告人橋本と面接し、また同被告人の宇都宮病院入院中のカルテ類を資料として、「被告人橋本は、昭和五六年三月、躁状態で宇都宮病院に入院し、昭和五九年二月一四日に退院するまでに三、四回の躁状態が繰り返されているが、カルテの記載からは、本件発生時の昭和五八年四月二四日当時、被告人橋本が躁状態であつたとは思われず、准看護学校に通学することができたことからみても、精神状態は安定しており、看護人の手伝いをしていたうえ、外向的で明るく、口出し易い性格であつたため、本件犯行に加担していつたものと考えられ、本件犯行当時被告人橋本の精神状態は正常人と同じとはいえないが、心神耗弱とまではいえず、責任能力はあつた。」とする。

3  これに対し、第六回公判調書中の証人石川信義(医療法人三枚橋病院々長)の供述部分(以下「石川信義証言」という。)によれば、同証人は、昭和五九年三月一七日及び同月二七日に被告人橋本を診療し、同年七月一二日から同年一一月一二日の右供述の日まで同被告人を入院患者として前記病院に収容して診察し、また同被告人の宇都宮病院入院中の診療録等を資料として、「被告人橋本の本件犯行時である昭和五八年四月二四日当時の精神状態は、同病院のカルテの記載には不備があるので、それのみによつては判断不能であるが、当時被告人橋本は躁病治療に有効なヒルナミンを服用していなかつた可能性が強く、また既に二年以上も入院させられていて退院許可をもらえなかつたことから、情動が不安定になつていた可能性があり、軽躁状態にあつたとも考えられ、そうであるならば、理非や物事の判断能力及び理解能力には異常はないが、自己の行動を抑制する能力が著しく欠け、心神耗弱の状態であつたと認められる。」とする。

4  そこで判断するに、関係各証拠によれば、被告人橋本は、宇都宮南署への転勤が決まつたのがきつかけで、気分が高揚し、かなり顕著な躁状態を呈し、上司らの配慮により、昭和五六年三月二八日宇都宮病院に入院し、ヒルナミン等の薬物の投与を中心とした治療を受けていたものであるが、同病院の被告人橋本の診療録等からみても、昭和五六年一二月末ころと昭和五八年八月ころには明らかな躁状態を示し、また同病院退院後の昭和五九年三月、四月及び七月にも軽い躁状態にあつたと前記医師林信人及び同石川信義によつて診断されており、同人が躁病に罹患していたことは疑問の余地がないところ、右宇都宮病院の診療録には、昭和五七年三月ころから昭和五八年七月ころまでの間の被告人橋本の精神状態については、別段異常があつた旨の記載はされておらず、これによる限り被告人橋本の本件犯行時である昭和五六年四月二四日の精神状態も安定していて、躁状態にはなかつたようにも見えないでもない。しかし、右診療録等の被告人橋本の精神状態に関する部分は、医師ではなく看護人の観察結果を記載したものに過ぎず、それも毎月数回極めて簡単に「看護室の手伝いを積極的によくやつてくれている。」といつた同趣旨で類型的な内容の文言を反覆羅列しているものであり、石川文之進院長の回診の結果を記載した部分も存在するが、これも院長と患者の会話をそのまま看護人が書き取つただけのものであり、右診療録の被告人橋本の精神状態に関する部分の記載内容は、到底全面的には信頼することができないものといわなければならない。そして、本件犯行時を含む昭和五七年七月から昭和五八年八月までの間、石川院長は被告人橋本に看護人の手伝いをさせていたこと及び昭和五八年四月中旬から同年七月までの間、被告人橋本は同病院に併設されていた准看護学校に通つていたことが認められ、このことからみると、石川院長は、本件犯行がなされたころ、被告人橋本の病状が安定していると判断していたものと思われ、現実に被告人橋本が右看護人手伝い及び看護学校への通学に十分耐えられていた(看護学校では五三人中四番の成績を修めた。)のであるから、少なくとも重篤な躁状態にはなかつたものと考えられるが、同院長の回診は週約一回、しかも患者と極めて簡単な会話をかわすだけのものであり、同院長以外には被告人橋本を診療した精神科医もいなかつたのであるから、同院長が被告人橋本の病状をどれだけ正確に把握していたのか甚だ疑問といわざるを得ず、また、被告人橋本が看護学校においてかなり躁状態で教師に食つてかかつたこともあつたという趣旨の証人斉藤昌男の供述も存在するのであり(第七回公判調書中の同人の供述部分)、前記の事実のみから被告人橋本が本件犯行当時平静な精神状態を保つていたとみることはできないのである。

却つて、被告人橋本は昭和五八年二月ころから同年四月の本件犯行の前後ころまで、躁状態の抑制に著効があるとされるヒルナミンを服用すると、その強力な鎮静催眠作用のため眠くなり、看護人仲間との麻雀遊びに差支えるなどの理由で、投薬されたヒルナミンを服用していなかつたものと認められる(第七回公判調書中の証人斉藤昌男の供述部分、被告人萩原及び被告人橋本の当公判廷における各供述、なおこれらに反する証拠はない。)のであつて、ヒルナミンを服用しないでいると躁状態になる可能性が高いことは、林鑑定及び石川信義証言等にも述べられているほか、前記診療録によれば、同被告人は躁状態で入院し、右状態が鎮静するにつれてヒルナミン等抗躁薬が漸減され、昭和五六年七月からはヒルナミンの投与が中止された(リーマスと精神安定剤は継続)ところ、同年暮から翌五七年の正月にかけて外泊許可により帰省したのがきつかけで躁状態が再発したことが認められるなど、被告人橋本の躁状態の発現時期とヒルナミンを服用しなかつた時期とはほぼ符合しているのである。また、被告人橋本が、本件犯行当時、看護学校に行けるようになつて喜んでいたということ自体は事実と認められるが、ヒルナミンの服用を止めていたところへ、右看護学校入学による気分の高揚が引き金となつて、躁状態が再発するという可能性は充分あると考えられる(入院時の躁状態が、栄転をきつかけとして発現していることを想起すべきである。)のである。そればかりでなく、被告人橋本は看護学校に通えるようになつたことを単純に喜び、満足していたわけではなく、既に二年余の間入院させられ、なおも退院許可がでないことに不満を持つていたこと等も窺われるのである。現に前記診療録の昭和五八年五月二五日の部分には、院長回診の際同被告人が強く退院の希望を訴え、これに対し石川院長が時間をかけて応対し、かなり長い問答が行われたことが記載されている。にも拘らず、看護人の記載する部分には、同年八月三日に至るまで、前記のような類型的な記載が続き、同月九日に至つて突如同被告人が「険しい表情で、六法全書を持つて事務所の当直者に退院を迫り、脅迫した」旨の記載が出現し、この時以後同被告人は躁状態が再発したと見られ、看護学校通学も看護人の手伝いもやめさせられるのであるが、右再発が八月初旬に忽然として起こつたとは考え難く、むしろかなり以前から徐々に病状が進行していたのではないかと考えざるを得ないのである。

してみると、前記林鑑定が、カルテの記載をほぼ全面的に信用して、被告人橋本が昭和五八年四月二四日の本件犯行当時、准看護学校にも通い始めるようになり将来が決まつて安心し、張り切つていたから、精神状態は安定していたとするその前提部分は、疑問の余地が多分にあるといわざるを得ず、従つてそこから導かれた結論も信頼性に欠けるといわなければならないのに対し、前記石川信義証言は、前記診療録等を慎重に検討して、少ない資料のもとに本件犯行当時の被告人橋本の精神状態を控え目に注意深く推測するといつた考察方法をとつており、その結論も右林鑑定に比してより信頼性が高いものと考えられるのである。

加えて、被告人橋本は、患者兼看護人手伝いであつて、いつまた看護人手伝いをやめさせられるかも知れないといつた難しい立場にあつたため、看護人のうちでも比較的親しかつた被告人萩原に追随、加勢して、小島に対しある程度の暴行を加えるということは、当時の宇都宮病院の看護の実態等からみて了解可能とはいえるが、躁病者の行動はむしろ了解可能なのが通常であるし、被告人橋本が実際に行つた本件暴行の態様は、判示認定のとおり、余りに執拗かつ強烈であつて、同様に加勢に入つた被告人石川亨と比較してみても、制裁の原因についての直接の当事者でもない被告人橋本の暴行の程度の高さには、通常人の感覚からはややかけ離れた異常に調子に乗り、抑制を欠いた行動であるとの印象が強いのである。

従つて、以上を総合すると、被告人橋本は、本件犯行当時、重篤な躁状態にあつたとまではいえないとしても、軽躁状態にあつたことまでをも否定することはできず、躁病の患者の特徴として、事理の弁別能力に欠けるところはないが、それに従つて自己を抑制する能力が減退し、被告人萩原が小島に対し暴行を加えているのを見て刺激され、興奮状態に陥つて自己を抑制することが困難になつて、本件犯行を犯したものと認めざるを得ない。

ところで、右のような被告人橋本の本件犯行時の精神状態は、石川信義証言によつても、軽躁状態とされているうえ、本件犯行は右躁状態ということのみで完全に説明されるものではなく、むしろ病院内の特殊な事情(暴力体質、前記のような患者兼看護人手伝いの微妙不安定な立場等)が動機形成の上で重要な要素となつていると見られるとの趣旨の指摘も同証言中にはなされているのであつて、右精神状態が直ちに心神耗弱に該当するというべきかどうかは一応別個の問題であり、慎重な考慮を要するところではある。しかし、同被告人が躁病に罹患していたこと自体は明らかであり、本件犯行と躁状態との関係を否定できず、むしろ躁状態による抑制力の低下が、同被告人をして被害者を死に至らしめるほどの暴行に走らせたと見るべき余地が大きいことは前述したとおりなのである。このように狭義の精神病による精神障害が存在し、それが犯行の原因の中で無視できない要素をなしていると認めざるを得ない場合、その行為者に完全な刑事責任を問うことは、やはり相当でないというべきであろう。

よつて、被告人橋本は、本件犯行時心神耗弱の状態にあつたものと認定した。

(法令の適用)

被告人萩原、被告人石川亨及び被告人橋本の判示第一の所為はいずれも刑法六〇条、二〇五条一項に、被告人萩原及び被告人石川敏彦の判示第二の所為並びに被告人石川敏彦の判示第三の所為はいずれも暴力行為等処罰に関する法律一条、刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項二号に、それぞれ該当するところ、判示第二及び第三の各罪について所定刑中いずれも懲役刑を選択し、被告人橋本については心神耗弱者の行為であるから刑法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をし、以上のうち被告人萩原の各罪及び被告人石川敏彦の各罪はいずれも同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、被告人萩原については重い判示第一の罪の刑に、被告人石川敏彦については犯情の重い判示第二の罪の刑に、(被告人萩原については同法四七条但書の範囲内で)それぞれ法定の加重をし、それぞれの刑期の範囲内で被告人萩原を懲役四年に、被告人石川亨を懲役三年に、被告人橋本を懲役三年に、被告人石川敏彦を懲役一年六月にそれぞれ処し、被告人萩原について同法二一条を適用して未決勾留日数のうち三〇日をその刑に算入し、被告人石川亨、被告人橋本及び被告人石川敏彦に対し情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から被告人石川亨については四年間、被告人橋本及び被告人石川敏彦については三年間、それぞれその刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条本文、一八二条により、そのうちの証人上山滋太郎及び同小島康男に関する分は被告人萩原、被告人石川亨及び被告人橋本に、証人大栗丹波に関する分は被告人萩原及び被告人石川敏彦に、それぞれ連帯して負担させることとする。

(量刑の理由)

一  本件各犯行は、精神病院という本来精神病患者を収容して治療すべき場において、しかも患者を保護すべき立場にある看護人らが、無抵抗な患者二名に対し、共謀のうえまたは数人共同して、金属製パイプ、スチール製パイプ椅子等まで用いて暴行を加え、そのうち一名を死亡するに至らしめたというまことにあるまじき残虐かつ悪質な事案であり、患者及びその家族のみならず、社会一般の精神医療に対する信頼を大きく失墜させた極めて重大な事犯であるといわなければならないが、まずその背景として、本件犯行の場となつた宇都宮病院の経営の実態、看護、治療体制の問題点について検討する。

宇都宮病院は、もと内科小児科等の病院を開設していた医師石川文之進が、その後精神医療を志して、昭和三六年五月に精神科の専門医を院長に迎えて開設したもので、設立当初は病棟は木造二階建で病床数も五七床に過ぎなかつたが、右石川は充実した設備を持つ大病院の経営をめざし、保険料収入の増大を図つて次々と病棟を増築し、扱いが難しく、治療も困難なために他の病院が引き取るのを渋るようなアルコール、シンナー、覚せい剤等の薬物中毒ないし依存症の患者等も多数収容し、特に昭和四六年に自ら院長に就任してからは、全面的に病院経営に携わり、病棟を鉄筋構造に増改築して、病床数を飛躍的に増大させ、昭和五八年のピーク時には九八〇名もの患者を収容する巨大病院にするとともに、徹底的に人件費の節減を図り、常勤医の数を極端に少なく押え、また無資格の看護人を積極的に雇い入れて、安い給与のもとに有資格者同様の職務に従事させ、しかも法定必要数を遙かに下回る恒常的な看護職員不足の状態を長年にわたつて放置し、更には患者に対しても作業療法等の名目で配膳の仕事から看護人の手伝い、各種検査まで行わせていた。

このように宇都宮病院は、二〇〇人から三〇〇人が限度といわれる精神病院の適正規模を遙かに上回る一〇〇〇人近い患者を収容し、しかも薬物中毒等の治療、看護の難しい患者を多数抱えていながら、医師、看護人が甚だしく不足していたため、本来の精神病院のあるべき姿である医師及び看護人と患者との間の相互信頼に基づくきめの細かい診療、看護など望むべくもない状況にあつたものであり、少数の医師、看護人によつて取り扱いの困難な者を含む多数の患者を収容する病院内の秩序を維持しなければならないため、看護人らの間では患者に対し威圧的な態度で臨んでこれを押えつけ、時には暴力をもやむなしとの風潮が生まれ、石川院長もこれを黙認したばかりか、むしろ自ら範を示し、回診の際など患者を蔑視するような言動が多く、また病院批判をした患者を長期間保護室に入れたりしていたため、益々右風潮が昂じていつて常態化し、患者に対し看護人が暴行を加えることも相当頻繁に行われ、患者らは医師、看護人らに人間扱いされず、抑圧されて言いたいことも言えず、じつと耐えて退院を待つという状況であつたと認められる。同病院において、患者らが如何に看護人らを恐れていたかは、本件判示第一の犯行の際、多数の患者がこれを目撃していたのにもかかわらず、誰一人としてこれを止めることができなかつたこと、小島の容態が急変した後も患者らはすぐには看護人に知らせることができなかつたことなどが如実にこれを物語つている。また、看護人らが病院内の秩序を維持するために患者に対し威圧的な態度で押えつけるしかなかつたこと、判示第二の犯行において、大栗が病院に対する不平不満を述べた際、看護人らは「規則だから仕方がない。」などというのみで、それ以上同人を納得させるに足る説明をすることができなかつたことなどからも、窺うことができるのである。そして、同病院においては、全く経験のない無資格の看護人を積極的に雇い入れて、何らの適切な教育、訓練も施さないまま、単に先輩看護人を見習うようにとのみ指示して、現場勤務にあたらせていたため、新任の看護人は、先輩から「患者になめられるな。言うことをきかない患者は殴つてもいい。」などと折にふれ教えられ、同病院内の暴力的な体質を当然のこととして受け継いでいくようになり、時に看護人がその体制に疑問を持つて、批判を口にしたりすると、解雇の憂き目にあうという状況であつたのである。

本件の被告人橋本を除く被告人らも、このようにして同病院の看護人としてその暴力的な体質の中に組み込まれていき、その看護人としての勤務中に、本件各犯行をなすに至つたのである。診療看護のスタツフを充実させ、看護人に対する指導教育が正しく充分に行われていれば、本件のような非道な事件は発生しなかつたと考えられる。また被告人橋本は、本来は同病院の患者であつたが、看護人の手伝いを命じられて、看護人と同様の立場に立つて、本件犯行に加担していつたのである。このように本件の背景には、同病院の暴力体質等特殊な情況があり、その影響下に被告人らの本件各犯行が発生したものであるということは否定し得ず、従つてこの点では被告人らばかりを責めることはできず、病院運営の最高責任者である石川院長にも重大な責任があるといわなければならない。

しかしながら、本件各犯行は、次に述べるように、右のような病院の暴力的な体質等からだけでは到底説明のできないほど、余りに残虐かつ執拗なものであることも亦否定すべくもないのである。被告人らは、被害者の患者らが何らの抵抗も示さなかつたのに、長時間にわたつて強烈な暴行を加え続けたのであつて、私的制裁の色合いが濃厚であるといわざるを得ない。確かに被告人らが各暴行を加えていた際のその心情の中には、当初は病院内の秩序を維持するためといつた職務意識もあつたかも知れないが、次第にそのような気持は消え失せ、その暴行自体を楽しんで行つていた様子すら窺えるのである。また、被告人橋本を除く被告人らは、いずれも自らの意思で同病院に就職し、同病院の暴力的な体質に気付きながらも、ほとんど疑問も持たずに勤務を続け、たやすく右体質に染まり、その体制の中に自らの身を投じていつた挙句、本件各犯行に及んだのであり、他に取るべき方法はいくらでもあつたはずで、同病院に就職したことが、本件各犯行に必然的に結びつくなどとは到底言い得ないのである。従つて、同病院の体質にも問題があつたとはいえ、そのことから被告人らは、その重大な責任を免れることはできないのである。

二  次に、本件各犯行を個別的に検討すると、

1  判示第一の被告人萩原、被告人石川亨、被告人橋本の小島に対する犯行は、同人が日頃からおとなしく、看護人や他の患者らといざこざを起こしたことは全くなかつたのに、たまたま犯行当日の夕食をきちんと食べるようにとの被告人萩原の指示をきかずに捨ててしまつたという比較的些細なことから、看護人の面子を潰されたとして、全く抵抗もしない同人に対し、他の多くの患者の見ている前で、よつてたかつて暴行を加えたというものであつて、他の患者に対する見せしめの意味もあつたと思われるが、暴力による見せしめということ自体が、決して許されないことであり、如何にも弱い者いじめという感を拭えず、また同人が被告人萩原の負傷していた右手を掴んだことや、逃げながら椅子を出して同被告人を転倒させたことなども、当然の避難行為であつて、同被告人がそのためになおさら興奮したことは、事実上の経緯としては了解できるけれども、決してその刑責を軽減する事情とはならないのであつて、本件は動機において極めて悪質であつて酌量の余地に乏しいものと言わざるを得ない。そしてその犯行態様も、小島が止めるように泣き叫び哀願するのも一切構わず、その腰部を回し蹴りし、背部等を金属製パイプで滅多打ちにし、床に四つん這いになつた同人の背部等に乗つて足踏みをし、脇腹から腰部にかけて膝打ちをするなど、既に争点に対する判断の項に述べたとおり、極めて執拗かつ強烈な悪質極まりないものであつて、その結果、同人を外傷性シヨツクにより死亡させたことはまことに重大であり、同人の無念さは察するに余りあるものがあり、事件発生後一年半以上たつた昭和五九年一一月に初めて被告人石川亨が謝罪に行くまで、同人の遺族らは何らの慰藉の措置もとられずに放置されていた。もつともこれまでに宇都宮病院及び石川院長からは、慰藉料等として合計一〇〇〇万円の支払がなされており、これは被告人らに対する関係でも、それなりに斟酌すべきである。しかし遺族の被害感情はなお強く、右被告人三名との間では、示談の意思はないと認められ、金銭的な慰藉の措置も後記石川亨関係のほかにはほとんどとられておらず、遺族らは、右被告人三名の厳罰を強く望んでいるのである。

2  被告人萩原及び被告人石川敏彦の判示第二並びに被告人石川敏彦の判示第三の大栗に対する各犯行について見るに、確かに同人は不平不満を口にすることが多く、他の患者ともしばしば紛争を起こし、看護人らに対しても反抗的な態度を示すことが多かつたので、看護人として充分な教育訓練を受けていない被告人らには、対応が難しかつたという事情は窺われるのであるが、その不平不満も同人のわがままから来るものばかりではなく、むしろ当然と思われる要求も多かつたうえ、看護人らに暴行を加えるといつた態様の反抗をしたことは全くなく、しかも同人がアルコール中毒、てんかん、肝硬変等に罹患していて、病状があまり良くないことは看護人として十分にわかつていたはずであるにもかかわらず、同人に不平不満を言わせないようにさせるなどの目的で数人共同して暴行を加えたというものであり、同人に対する暴行を正当化するような理由は全く存在しなかつたのであり、その犯行態様も、判示第二の犯行においては、サンダル履きの足先で同人の大腿部等を蹴りつけ、冷水を頭から浴びせかけたうえ、スチール製のパイプ椅子でその背部等を殴打するといつた極めて強烈なものであり、判示第三の犯行においても、卓球台の上等に長時間正座させたうえ、モツプの柄が折れるほど強烈にその臀部等を殴打するといつた残忍なものであり、いずれも極めて悪質な犯行であつて、同人は右各犯行の翌日に死亡するに至つており、右各犯行と同人の死との間の因果関係は証明されていないが、逆に右因果関係が全くないことが明白であるというわけでもないのであつて、同人の遺族らが右各犯行と同人の死との間に何らかの関係があるのではないかと考えるのもまこと無理からぬものがあり、本件発生後一年以上経過した昭和六〇年三月になつて初めて被告人石川敏彦が謝罪に行くまで、同人の遺族らは何らの慰藉の措置もとられずに放置されていたのであり、これまでに病院及び石川院長から墓石建立資金等(実質は慰藉料と解される。)として合計五〇〇万円の支払がなされている点を斟酌すべきことは小島関係と同様であるが、右被告人二名との間では遺族らに示談の意思がなく、金銭的慰藉の措置もほとんどなされていないのであつて、遺族らは右被告人二名の厳罰を強く求めているのである。

三  そこで最後に、各被告人について個別的な事情を検討したうえ、量刑を決することとする。

1  被告人萩原は、対小島、対大栗のいずれの犯行にも関与しているのであるが、先ず判示第一の小島に対する犯行について見るに、同被告人は右犯行の主導者であつて、些細なことから激昂して、小島に対する暴行を最初に開始して結果的に被告人石川亨、被告人橋本を本件犯行に巻き込んだものであり、わざわざ金属製パイプを持ち出して容赦なく小島の腰部等を多数回強烈に殴打し、それが結果的に小島を死に至らしめた最大の原因であると強く疑われるうえ、床の上に四つん這いにさせて底の硬いサンダル履きのままその背部に乗つて足踏みし、うつ伏せにつぶれた同人の背部等に乗つて踏み歩いたのも被告人萩原が最初であつて、被告人石川亨、被告人橋本はそれを真似て同様の暴行を加えたのである。また、判示第二の大栗に対する犯行の際も、その発端は被告人萩原にあり、被告人石川敏彦に続いて、積極的に大栗の大腿部等をやはり底の硬いサンダル履きの足先で蹴りつけるなどの暴行を加えており、判示第一の小島に対する暴行によつて同人が死亡したと薄々感じていながら、全くそれが反省材料にならずにまたまた同様の暴行を繰り返したことを考えると、極めて悪質であるといわざるを得ず、右各犯行以外にも、しばしば患者に対し暴行を加えていることなどから、同被告人が激昂し易く、粗暴な性格の持主であることは明白であるといえ、これらを総合すれば、同被告人の刑責は極めて重大であると断じざるを得ない。

被告人萩原は、普段はむしろおとなしい性格であると評価されていた者で、働きながら高校を卒業するなど意思が強く、しつかりした面も窺われ、前科、前歴はなく、保釈後は遅ればせながら小島及び大栗の遺族らの下にも謝罪に赴き、反省、悔悟の情を示している。そもそも同被告人は、幼少時病弱であつたことから、医療関係の仕事に一種の憧れのようなものを持つていて、それも一つの動機となつて宇都宮病院に就職したというのであつて、その被告人が、本件の如き犯行を犯してしまつたということは、前記のような病院の本質にたやすく染まつてしまつた同被告人の人格の至らなさの故とはいえ、同被告人のために惜しまれてならないところである。

しかしながら、右のような事情を斟酌しても、被告人萩原の本件における責任はあまりにも重いというほかはなく、主文のとおり実刑により厳しくこれを問うべきが当然と思料される。

2  被告人石川亨は、判示第一の小島に対する犯行において、被告人萩原が小島に対し暴行を加えているのを目撃して、その原因も確かめないまま、ためらいもなく直ちに被告人萩原に加担し、被告人石川亨自身は小島に対し特に激昂していたわけでもないのに、平手で同人の顔面を殴打し、被告人萩原が金属製パイプで同人を殴打した際には殴り易いように同人の肩口を押えてその手助けをしたり、被告人萩原の暴行を真似て小島の背部に乗つて踏みつけるなど積極的に暴行を加えているのであつて、その犯行の動機、態様とも極めて悪質であつて、被告人石川亨の刑責もまことに重大である。

しかしながら、右犯行当時、同被告人は本格的に看護人として働き始めてからわずか一〇日余りしか経過しておらず、看護人の職務についても未だ不慣れな状態の時に、先輩看護人を良く見習うようになどと指導されていたこともあつて、被告人萩原に追随して、本件犯行に加担してしまつたという面も窺われ、途中いくら何でも被告人萩原らの金属製パイプによる滅多打ちはやり過ぎと考えて、犯行現場を一旦離れたりしたこともあり、全体的に見て、実際に同被告人自身が行つた暴行の程度は、被告人萩原、被告人橋本と比較して軽度で、それのみで小島を死に至らせるほどのものであつたとまでは認め難く、なお被告人石川亨も亦普段はおとなしい性格で、前科、前歴は全くなく、保釈後比較的早い時期に小島の遺族らの下に何度も謝罪に赴き、示談は成立していないが、慰藉料の一部という趣旨で五〇万円を提供し、一応受領されているなど一応の誠意も見せており、反省、悔悟の情もかなり深いと認められるなど同被告人に有利に斟酌すべき事情も存在する。以上を総合して考えると、同被告人については実刑を選択するまでにはいま一つ踏み切れないところもあるので、主文のとおり量刑の上執行猶予を付することとする。

3  被告人橋本は、判示第一の小島に対する犯行において、被告人石川亨同様小島に対し何の恨みもなかつたのにもかかわらず、被告人萩原に積極的に加担して、小島に対し暴行を加えたのであり、その暴行の態様も、被告人萩原の暴行を真似て金属製パイプで強烈に小島の背部等を殴打し、四つん這いになつた同人の背部に乗つて足踏みしたりしたうえ、ベツドに腰を掛けた同人の背部を蹴りつけて床に突き落とし、ベツドから飛び降りた反動を利用してその脇腹から腰部にかけて膝打ちしたなどというものであつて、同人の体力、体重等を加味して考察すると、金属製パイプによる殴打が小島を死に至らしめた最大の原因と考えられることは、被告人萩原について述べたのと同様であるほか、右踏みつけ、膝打ちも強力な加撃行為であつたと考えられることも、前述したとおりであつて、その暴行の程度は被告人萩原のそれに勝るとも劣らない程の高度なものであつたと認められ、本件以外にもやはり被告人萩原に加担して患者に暴行を加えたりしていることも認められ、現在まで小島の遺族らに対し何らの慰藉の措置も講じていないことなどを合わせ考慮すると、同被告人の刑責も極めて重大なものがあると言わざるを得ない。

しかしながら、同被告人は、躁病に罹患して、当時の上司らにより、有無を言わさず同病院に入院させられ、本件犯行当時既に二年以上もの間在院していた患者であり、特殊な世界の中に長期間閉じ込められて退院することを許されないでいるうちに、本来は正義感が強く、警察官にまでなつた同被告人の人格も抑圧されて、規範意識にも変容を来たし、早く退院するためならば何でもするという傾向が強くなつていつたものと考えられ、看護人の手伝いも院長に命じられて半ば強制的にやらされていたのであつて、かといつて患者の中では特権の認められる看護人手伝いを辞めさせられて単なる患者には戻りたくない、早く退院したい、そのためには看護人らに協力し、気に入られるしかないという困難な立場に立たされていたのであつて、他の被告人らと違つて、この点では被告人橋本は同病院の被害者でもあつたのであり、このような状況の下で、被告人萩原らに加担して本件犯行を犯してしまつたという点からみると、被告人橋本の刑責はそれなりに軽減されるべきである。また、前記のとおり、同被告人は、本件犯行時、軽躁状態にあつたため心神耗弱の状態にあつたものと認められ、その結果自己の行動抑制が十分にできないまま、前記のような強烈な暴行を加えるに至つてしまつたものと考えられ、この点でも同被告人の刑責は軽減されるべきであり、その他同被告人も亦前科、前歴はなく、現在では、郷里に近い三枚橋病院の診療を受け、躁病治療につとめるかたわら、ダンボール工として働き、本件犯行については反省、悔悟の情を示しているなど、同被告人に有利な事情も存在し、これらを考慮すると、同被告人については実刑を科することは酷というべきであり、主文のとおり量刑の上、執行猶予を付するのが相当と思料される。

4  被告人石川敏彦は、判示第二、第三の大栗に対する各犯行の主導者であつて、床や卓球台の上に同人を正座させて、足蹴りにしたり、スチール製のパイプ椅子でその背部等を殴打したり、患者に命じて冷水を頭から掛けさせたり、モツプの柄が折れるほど強烈にその臀部等を殴打したりするなど極めて強烈な暴行を加えているのであつて、本件以外にも患者に対し暴行を加えたりしたことがあり、また同被告人には過去に暴行の前歴もあること等からみても、その性格に粗暴な点があることは否定できず、これらを総合すると同被告人の刑責も重大であるといわなければならない。

他方、被告人石川敏彦はここ一〇年以上の間前科前歴は全くなく、保釈後遅ればせながら大栗の遺族らの下に何度も謝罪に赴いてそれなりの誠意を見せており、その他同被告人は幼い子供を持つ一家の支柱でもあること、反省、悔悟の情もかなり深いと認められることなど、同被告人に有利な事情も存在する。以上述べてきた一切の事情を総合し、そもそも同被告人の問われている罪責は共同暴行のそれにとどまるものであることをも考慮すると、同被告人に対しても、実刑を科することはなお聊かためらわれるので、主文のとおり量刑の上執行猶予を付することとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 藤井登葵夫 榊五十雄 山田敏彦)

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